2012年7月23日月曜日

Gone Insane




この場を借りて、紹介しておこう

1957年、作家ケルアックがバロウズと落ち合うためモロッコのタンジールに行ったとき、カスバから友人に宛ててこんな手紙を書いていた
バロウズは気が変になっている...

写真は
ケルアックの手書きの手紙である



◇バロウズは正気でなくなっている
1957年の早い時期、ジャック・ケルアックとアレン・ギンズバーグはウィリアム・S・バロウズと合流するためタンジールに行った。二人の使命は、読みやすい『裸のランチ』の原稿になるようにバロウズの沢山の未完原稿を集めて編集することだ。
ケルアックは早めに到着すると、"親友の狂人"バロウズとの交流の中休みの間、プロジェクトの進展について最新情報を提供するためにルシアン・カーとその妻フランチェスカに手紙を書いた。
その手書きの手紙、本質的に全盛期のバロウズの行動の魅惑的な報告は、以下に見ることができる。
ほかの書簡や原稿の記録、写真を含め、関連資料としてコロンビア大学のオンライン公開" Naked Lunch" : The First Fifty Years(裸のランチ:偉大なる50年)を訪問することを私は大いに勧める。

親愛なるルシアン&Cessa ーーミステリアスなカスバからろうそくの明りのそばで君らに手紙を書くーーカスバにはビーチ&ベイ&海を見下ろす&ジブラルタル海峡を見ることができるすばらしい部屋があるーー日光浴するためのパティオ、ルームメイド、月額20ドルーー気分は最高だがバロウズは狂気じみてきている、例えばーー大使館の一部でちんちんを振る&外見のようにどれほど内部が美しいか見るためアラブ人少年を殺戮するだなんて口にするのも嫌な実にひどい行為を突発的にしに行くと言い続けるーー当然のことながら私はこのすばらしい親友の狂人に対し寂しい気分だが、やはり彼の会話の大部分でもぐもぐ口ごもるだのどっと出るにつれ、これまでよりますます彼に対し心細い、ある種みごとな無限の新しい英国貴族の模倣で、全くすばらしい言葉の大群で、それが彼から滔々と述べられ続ける&実際、彼の新書は世界中(ジュネ、セリーヌ、ミラー等)で最高の一品&我々がWORD HOARD(言葉の貯蔵物)と呼んでもよさそうなものだ... 唯一無比の預言者を待ち受けている世界に、彼、バロウズ(もはや"リー"でない)は彼の言葉の蓄積または大群を繰り出す、バロウズーー彼のメッセージはまさにスカトロジカル・ホモセクシャルの超狂暴なマッドネス、ーー彼の原稿はまさに世の中のすべての少年の便所に彼が置き去りにしてきたWORD HOARD(言葉の蓄積)という著述された独創的なおびただしい数のページから残されたものーーなどなど、ーーエレガントなフレンチレストランに彼と一緒に腰掛ける&彼はハイド氏のように彼の骨子を吐き出すように言うとヨーロッパ大陸人の常連どもに聞こえるように卑猥な言葉をわめき続けるーー(ローマで彼がやったように、ビッグなpalazzioパーティで放屁と大声で叫ぶ)ーーアレンがここに来るときうれしく思う。ーー差し当りオレはカスバを探検する、この間オレはアヘンでもハシーシでも酒なら何でもまたはオレが必要とするドラッグに夢中なカスバを探索する&アラブ人を探究する。ーースロベニアはとても楽しい船だった、毎日あのユーゴスラビア人女スパイと一緒に長く白いテーブルクロスで堪能した。ーー私たちは二日恐ろしい大あらしに当たった、これまでにこれにまさるものはない、ーーあの大きい鋼鉄の船がシーシー言う巨大な海面に負けた、すさまじい。ーー私はタンジール行きの2枚のチケットを抱えて寝った、お笑いぐさ。ーー君が読むべきなキルケゴールのFear and Tremblingも読み出す。--ちょうど今スペインのベンゾジアゼピンのようなSympatinas3錠でハイになる、マイルドだ。ーー精神安定剤をどっさり。当地の女の子の状況は男の子の状況より悪い、どこもかしこも男の街娼と彼らの補充物のクイーンしかない。口ひげのある現実の密輸帆船冒険家に出会った。その他。もっと多くをすぐに。Miss you&元気でな。ジャック。

http://www.lettersofnote.com/2010/03/burroughs-has-gone-insane.html

2012年7月18日水曜日

Burroughs



1986年9月5日、movieより

ジャック・ケルアックはウィリアム・バロウズを「ブル」と呼び先生と慕っていた。
バロウズのニューヨークのオフィスは元YMCAの更衣室で幽霊が出る。バロウズはそいつにロビンという名を付けた。まるでケルアックの作品「Dr.Sax」だ。そのオフィスには「Bunker」と呼ぶ秘書がいつもいる。まるでバロウズの屍衣だ。
「わたしはドクターか、エスピオナージ(スパイ行為)をしたかった。エスピオナージをしていたら、今頃はCIA長官になっていた。」
バロウズは「コブラ」という武器を持つ。ゲイ国家建設をめざして、少数派だから財産を守るためには殺人も犯すゆえ、常に訓練をしている。 




以下は当時の新聞の切り抜き、「還暦迎えたギンズバーグ」より引用


◇「吠える」から30年、ギンズバーグが還暦を迎えたーー諏訪 優

「吠える」やギンズバーグの言動が、いわゆる60年代のカウンターカルチャーの引き金になり、ビートジェネレーションの呼び名とともに、世界中の若者たちに引き継がれたのだったがーー。
 世紀末の今、世界と人間の意識は変わっただろうか。
徐々にだが変わった、いや、今なお変わりつつあるとわたしは思っている。...たとえば「吠える」の出た1956年以降に生まれた現在二十代の若者たちに、みずみずしい緑の芽を感じる。
 彼らはどこかで「吠える」やジャック・ケルアックの「路上」などに触れ。そこで触発されたと語る場合が多い。
 ボブ・ディランは、「ギンズバーグは悲壮であり、かつ活動的である。反体制詩人としての影響力はホイットマン以来の詩人だ」と言い、オノ・ヨーコは、「アレンは、たとえてみれば空の無数の星の中にあって不動の位置を占める星のひとつだ」と、それぞれ賛辞を送っている(還暦を記念して出版された文集「Best Minds」)。
 ケルアック未亡人ステラの、みじかい言葉が優しく印象的だった。
「これから何年も何年も、たくさん書いて、元気で、しあわせに生きてね!」

△同じページに貼り付けられた新聞の切り抜きは、「プルトニウムとトリチウムを生産しているアメリカの核兵器用原子力工場の中でマリファナ、コカイン、LSDなどが公然と売買され、使用されていたことがわかった」との労働省の報告書に関する報道だ。

▲画像はクリックすると拡大版で読めます。

2012年7月8日日曜日

mighty mouth roar


1986年4月20日、3月11日に成田に着いた。飛行機にはあんがい簡単に乗れた。小雨に煙る暗くてさえない寒い日本だった。グレーだ灰色だまるで経帷子だ。
 この一カ月あまり、世界は、リビアのカダフィ大佐に対する暗殺計画に基づいたイギリスから飛び立った戦闘機111による攻撃事件があった。トリポリ付近にあるカダフィの作戦テントエリアがやられ、1歳になる養女が死亡し2人の子どもが負傷した。カダフィはラッキーにも他のテントにいて無事だったがショックは隠せない。ワシントンポスト紙が、これは計画的な暗殺であり、カダフィが死亡した際のメッセージも用意されていたとすっぱ抜いた。しかしもはや誰も驚かない。レーガン・サッチャー路線の国家テロが浮上しただけのこと。
 ガーディアン紙の記事を引用した朝日新聞の「世界の論調:リビア攻撃、英国人の胸の内」の切り抜きがある(黄ばみが激しいので一部引用する)。


リビアに対するアメリカの強硬姿勢に英国民も内心は反発を強めているが、ベトナム戦争の時のような大衆抗議行動は起きていない。ガーディアンがその背景を分析する。
「冷酷な戦闘機に乗り込んだ米兵は、かつてベトナム全土にナパーム弾の雨を降らせた時ほど、わけもなく醜悪なものには見えないのである。...原因はなんであれ、反米主義は、もはや街頭の政治行動を鼓舞するもではなくなったらしい。」
「一方、英国人は反米ではないが、著しく反レーガン的ではあるようだ。アメリカ本国であれほど強力なレーガンの魔術だが、英国までは届かない。欧州人がアメリカの指導者に不信感を抱くのは、大抵の場合、その指導者が好戦的で短絡的で危険な人物に見えるからだが、レーガン氏はそれらの要素を体現している。こうした中で、レーガン大統領に対する無批判的賛美を隠そうとしない英国でまれな人々のひとりが、たまたまサッチャー首相その人なのである。」

△画像をクリックすると拡大版で読めます。



この年、ジョン・マッケンローがガールフレンドのテイタム・オニールと婚約したと記事にある。


2012年6月30日土曜日

No more innocent ara


3月3日、世の中いろんなことが起こっている。
フィリピンからマルコスが逃げた。昨日、政治的暗殺がスウェーデンで起こった。ジャーナリスト出身の平和主義者、パルメ首相が西ドイツのテロリストによって暗殺!と報道される。"No more innocent ara! Sweden."(事件は未解決。犯人はクリステル・ペターション、暗殺の背後にKGBが絡んでいる可能性があるとスウェーデンの新聞等で報じられたが、KGBはこれを否定。)

 1985年はテロリストの時代だった。そして1986年、旅が始まりテロはフランクフルトで再び始まって成田、パリ、ウィーン、イタリー、そしてヨーロッパへのアメリカ人観光客が激減した。ドルの低落そしてテロ。円は1ドル178円にまで跳ね上がりそして不景気。恐ろしい無知と数字のマジックと勘違い。ああ、キューブリックの「The Killing(1956)」もう一度見たい。

3月5日、こんな人を見た。
丸みを帯びた胴体、腕の根本らしきところにはやけどのケロイド状態になった傷跡だけが残っている。


#パルメ首相の暗殺は私の中でも"安全で良識ある国"のイメージが大きく揺らぐ衝撃の事件だった。時間の経過と共に強国の駆け引きなどが見えてきても、世界の普通の人々にはわからないことがほとんどだ。そういう意味でもウィキリークスのやったことはすごいことなんだと思う。大国には、それこそ"殺したいぐらいの存在"であるんだろう。だからこそ、ジュリアン・アサンジの身柄の行方に注目している。パルメの暗殺についても風化して欲しくない。

パルメ殺害の動機:
オロフ・パルメは殺された当時、社会主義者インターナショナル委員会、つまりパルメ委員会の議長だった。この委員会は第三世界の紛争の調停をしたり、内戦や地域紛争、民族戦争や混乱によって破壊された地域の非武装化を進めたりすることをその目的とした。
殺害される何ヵ月か前、パルメはスウェーデンの武器商人、カール・エリッヒ・シュミットの事務所の手入れをスウェーデン警察当局に命じた。それは交戦国への武器販売を禁じた国際協定に違反し、イランのホメイニ陣営へ武器を提供した容疑によるものだった。シュミットの家宅捜査により入手した書類を調査するうち、パルメはそのスウェーデン人がイスラエルのモサドおよびレーガン・ブッシュ政権内のプロジェクト・デモクラシーの組織と緊密な関係を結びながら仕事をしていたことを知った。さらに、東ドイツの悪名高い秘密警察シュタージも、シュミットによるスウェーデン製爆薬のイランへの密輸に加担していたことがわかった。その一方で東ドイツは当時、ソ連製の武器をニカラグアのコントラに大量に送り込むのにも協力していた。ていた。1985年の終わり頃には、パルメは6年も続いていたイラン・イラク戦争の終結に向けて努力していた。
ペルシャ湾や中米で東西が表向きには対立しながら、地域戦争を醸成するために裏ではなれ合いの関係にあるという皮肉な事実を、パルメは暴露しようとしていた。だが、彼は暗殺されてしまった。彼の口を封じることは、アメリカ政府高官、ソ連KGB、そしてその仲間である東ドイツのシュタージのいずれにとっても願ってもないことだった。(抜粋)

(引用元:ブログ「日本人が知らない恐るべき真実」)
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20051215

bus trip


1986年2月18日~2月27日 at コサムイ
2月18日バンコクを脱出、島へ。ところがコサムイ(サムイ島)はブームのまっただ中で人だらけ。どこのバンガローもビーチも、フル、フル、フル。人があふれている。その先の島Copacangも逃れて行き着いた人、人で、あふれているらしいが、その割にプーケットには人がいないらしいからやはりブームなのだろう。閑散としていた頃のここが懐かしい。ヨーロッパ系が多かった、出会う人々の共感あるまなざしで築かれる日々だった。今は次から次に人が入れ替わってざわざわしているし、バンガロー求めてビーチをバックパッカーが流していく。クレイジー。
帰りの列車のチケットは取れずじまいでバスで帰ってきた。

 2年前もバスで帰ってきたな、ひとりで。隣の座席に親切なチャイニーズ系のおじさんが座って心底ほっとした。乗車前に店のトイレに駆け込み、紙幣を靴底に隠したっけ。バスは危険だ、ホールドアップにあう、特にひとりでなんて止めた方がいいと、前夜タイ人に言われたからだ。パッカー間の情報交換でもバスのなかでは飲み物はもらうな、睡眠薬とかが入っていてヤバイということだ。ひとりしょぼくれていたのが、来たときに出会ったかわいいキッズにまた会えて大きな笑顔にバイバイしたらすごく元気になっちゃった。でもサービスで出たバスの中の飲み物(色はブルー)は飲まなかったよ。バンコクに着いたのが夜遅くだったから、ヨーロッパ系のすごくキュートなバックパッカーが一緒にと声をかけてくれた。

 とにかく28日の朝、トンブリに着く。バスでは検閲があり、顔をビデオに撮られた。あっちこっちで長距離検閲があった。そうそうフェリーでコサムイを出るとき、同じ日に列車でバンコクから来たフレンチのカップルとまた一緒だった。スラタニまでのバスに乗り換えるとき眠っていて、マリオ・プーゾのショッキングピンクの表紙の本、タイトル忘れた、置いてきてしまった。そしてまたJuly Hotelへ。

 航空券の変更と予約に行くとパキスタンエアラインは3月はベリーベリーフルで取れないそうだ。ウェイティングもクローズドで、残るは空港でのスタンバイとなる。



この年、アヌーク・エーメとジャン・ルイ・トランティニャンの
20年後の続編「男と女」が公開された。

2012年6月19日火曜日

Rotten Country

   1986年2月13日、The Dusit Thaniにて文化講演なるものがあり、日本から作家の渡辺淳一と五木寛之が話をしにやって来た。昔、札幌医大で医者をやっていたという渡辺氏はしゃべる要旨が判然としないまま時間をつぶして旅行のつもりでちょっと来たのがあからさまだったが、五木寛之氏の話は京都のくだりがおもしろかった。タイ人は「しなやかに、したたかに生きる」と表現して日本人より国際人と見ていた。京都には日本のトラディショナルがあると外からも内からも言われてきているが、実はもっとラディカル(新しもの好きでいち早く海外文化を取り入れて生きる)にモダーンに、そしてしたたかに気に入ったものを取り入れて(アイディアから技術まで)生き残る。その上、日本の伝統ですよとすましている。タイ人しかり、ベトナム人しかり、このたくましさこそインターナショナルに生きていく術なのだと思う。そしてクールだ、合理的だ、まったくそう。五木寛之氏は3年間ブレイクして京都で暮らした。こちらは2年間ブレイクしてあちこちで暮らした。さて、どう生きるかな。




 フィリピンの選挙はどうも史上最高の不正で気持ちの悪い結果に終わりそうだ。なにが事実か、事実に近いところの集計に反してマルコスが勝つようだが。アメリカ側の意見で「二人でやったらどうなの?」「アキノが顧問になってやってみたら?」と、随分と優柔不断の申し入れ。ミセス・アキノもきっと腹が立ったことだろう。しかしいま闘うしかこの腐った国をなんとかする方法はないよね、もう2~300人死んでいる。

コラージュのタイトルは「Anyway You are First Lady... Nancy」

2月15日、今日はウアランポーン(駅)でまた奇形の人を見た。たぶんドイツ人かオーストリア人で肩から生えた小さな手にバッグを持っている。
サリドマイドの両手。ちぐはぐに動いている指先にショルダーバッグをつまむようにして持っている。日本だったら彼らを国外に出さないだろうね、旅行者として。ハンディがあってもそれはそれとして、したいことをしている。しかし日本に永くいると、こういうこともアブノーマルに思えてくるから怖い。
  



 フィリピンの選挙は不正にもマルコスの勝利を報じているがローマカトリックがこれに抗議し、バックアップにバチカンが動いている。ECも抗議して調査員をマニラに派遣した。いま不正を認めてしまったらフィリピンが民主化されることはないだろう。
世界もこんなとんでもない不正は許さないと圧力をかけて殺るか殺られるかのフィリピーノを助けないと。アメリカは一体どうするつもりなのか。見て見ぬふりをして「フィリピーノが自分で考えるべきこと」とレーガンに言わせ、米軍基地を維持しておければいいことなのか?私たちは認めない。


2012年6月7日木曜日

Reclining Buddha


1986年2月11日、このドレスのデザイナーはアントニー・プライスでモデルはジェリー・ホール。デイヴィッド・リンチの映像にも通じるものがあると思ってるがドレスのテクスチャーがたまらない。思わず紙面をなでてうっとりする。


ここんところ足先の皮膚の感染症が痒くて痛くて、歩いていける距離の赤十字病院に行ってきた。ラボで検査をし塗り薬をもらう、悪いものじゃなさそうだ。けっこうヨーロッパ系の滞在客が同じような症状で来ているのに出くわした。ラボで読んでいた雑誌に横になってる仏陀の写真があり、「リクライニング・ブッダ」とキャプションがあった、おもしろい。


コラージュのタイトルは「Wondering Horse You Know.」とある(なにせ昔のことで)





ミセス・アキノとマルコスの選挙は丸3日経ってもまだ開票が終わらない。数々のコントロール、不正が史上最高の規模で行われている模様。"Rotten Election" 死者の数は100人以上にも及んでいる。投票箱ごと盗んでいくし投票の始まる数分前にはもうすでに投票箱が満杯になっているという仕組み。開票のコンピュータ操作をしているオペレータたちが集団で逃げ出した、もうこんな不正に加担するのはまっぴらだという理由で。しかしもう世界が許さない、でしょマルコスさん、buss off ! Please.